赦罪
 眠れぬ夜は酒を飲んで過ごす――。
 今夜もそうで、俺は日本から取り寄せた清酒の一升瓶を片手に窓際を陣取った。
 外は朝から変わらずしとしとと雨が降っている。
 それを眺めながら、俺はガラスのコップに水のような液体を注いで溜め息をついた。
 雲は厚く、その微細な水蒸気が信号やネオンの明かりを吸ってにごった色で空を覆って
いる。月明かりさえ差し込む隙間もない空を行くのは雲か、烏だけだろう。
 ベランダの下には信号を待つ車がミニカーより小さく、ちみちみと動いていた。
 ここは地上四十階。とある高層マンションの最上階から五階しか違わない場所だ。距離
にして十数メートルしか変わらない。たとえ十数メートルの差が大きかったとしても、車
はミニカー以下の小ささに見えることは同じだ。
 酒に一口、口をつけて深く溜め息をついた。音のない室内に雨の音が響く。そんな音が
たまらなく心地よく鼓膜を打つ。
 目を閉じてその音に聞き入った。せつなを生きている俺たちだからこそだろう。他では
ただの煩わしい大人のだろう。むしろ静寂が怖いと感じるのは俺だけだろうか。
 壁に背を預けて、白いだけの天井を見上げた。特に何もない。有線ではアダルトで露骨
で、ひわいな映像が流されている。
 意味不明な女の高い声や、男の嬌声も全てが不快だった。この雨の音をかき消すもの全
てを排除したいと思った。
 テレビを消して、ついでに電気も消す。暗くなった部屋に溜め息をついて、また窓際に
戻って酒を煽った。
 外の明かりが中を照らす。いつも一人だが、こういう時独りになるのは少し怖い気がし
た。がたが外れそうな、あるいは外れかかったナニカを持っているとわかっているからだ。
 ――紛れもない自分自身への殺意。
 ふとしたとき、目や手が拳銃に言っているのはこのためなのだろう。他には常に周囲を
警戒している体と思われているが、そんなことはない。有事の際、とっさでも動けるのは、
判断力を持っているからだ。思い切りの良さ。俺は自分自身はここに長けていると思って
いる。
 無論、自殺などという馬鹿なことする訳がない。だが、それでもがたが来てしまってい
るらしい精神状態ではしてしまうかもしれない。
 死にたいのではない。――誰よりも自分を殺したいのだ。
 自分自身という存在の抹消願望。死すら生ぬるい。自分という存在の一切が消えてなく
なれば良いのにと、学生のときからそう思っていた。
 死すではない。殺害するのだ。
 自殺。今まで、意識の中でそれを考えながら、意識があるうちにしていないのは、死ん
でも償いきれないと判断しているからだ。新で償える事など、所詮その程度のことだ。
 生きるほうがどんなに尊くて、どんなに難しいことでどんなに苦しいことかを知らない
連中が選ぶのが、死だ。所詮、死んだら葬式を挙げて焼かれて骨になる。
 どんなに惜しまれた人でも、経や、なんなのと読んで、最短で二日もすれば灰や燃えか
すになる。人の死がどんなにあっけないものかが良くわかる。
 俺自身、そう思ったのは両親が不慮の事故という暗殺で死んだときだった。親が死んだ
というのにそんなことを思った俺はとんでもない親不孝者で、人ではないのかもしれない。
だが、これが本音なのだ。こればかりは誰にも明かしていない。
 ふっと溜め息をついてもう一度酒を煽った。遠くから救急車のサイレンが鳴り響いてい
る。
 経云々という話は、日本人だからこそ、ほぼ仏教徒である俺たちだからこその思想だろ
う。実際俺は、日本で生まれ育ったわけではない。いわゆる、帰国子女というものだが、
その思想は血に染み付いているようで、いくらキリスト教やイスラム教、ユダヤ教の天国
や救世主の存在を説かれても消えることのない感覚だった。
 深く溜め息をついて目を閉じる。心地よいぬかるみが四肢を覆っている。だいぶ、酒が
まわってきたらしい。残りを一気に煽ってその脱力感に身をゆだね、雨の音に耳を澄まし
たまま眠ってしまった――。

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