夜に揺蕩う白き花片

 息が、白く凍っている。空を見上げてみれば、澄んだ夜空が広がって星々が小さく、瞬
いている。もうそろそろ、雪が降り出すのだろう。
 俺は、家と呼べない粗末な庵の外、敷居を敷いて灯火を持って、そこで、書を読んでい
る――。
「お風邪を召されますよ、秋嗣さん」
 書を読んでいたからだろうか、後ろから来ていた彼女に気づけなかった。振り向くと、
彼女は俺の肩に羽織をかけてくれた。
「唯でさえ、お体が弱いのに」
 そこに叱責する響きはなく愛しむ響きしかなかった。俺は、日中、仕事が忙しい。とい
うより、日中は外に出て、いろいろ調べ、夜になって仕事をする。彼女と一緒に居られる
のは、朝と、夜遅くしかないのだ。体調が悪ければ休めるのだが、この頃体調が悪くなる
事は少なくなっている。むしろ、体調が悪ければ休まねばならないのだ。それほどに俺の
仕事は失敗が許されないのだ。
「なにをお読みになられているのですか?」
 穏やかな声。体を摺り寄せてくる。かすかに触れた肌が暖かい。今日は、変更があって
仕事をしなくてすんだ。だから、今、書を読んでいる。彼女と居る。
「たいしたものじゃ、ないよ」
 そう答えると、俺は、彼女をそっと引き寄せた。その温もりがとても暖かかった。
「もう」
 こんなことを言っているが、さほど嫌そうでもなく俺の薄い胸板に頬を摺り寄せてくる。
「もうじき」
 不意に、そんな言葉が口に出た。何も考えずに出てきた言葉をどうやってつなげようか
と考える。もうじき、江戸の城が薩長の輩に渡される事は、口に出してはいけない掟だし、
と口ごもった。最も、俺は、武士ではなくただの殺し屋だ。仕事を忠実に遂げるただの殺
し屋。いつでも切り捨てられるような位置に俺は居る。
「秋嗣さん?」
 押し黙った俺を不審に思ったのだろうか。体を離して俺の顔を見ようとした。手を離し
て、俺は彼女から目を離し空を見上げた。
「いいや。……もうじき、白い花片が舞うな」
「白い?」
 今は冬じゃないですかと言いたげなその目に俺はふっと笑った。その頬をつついて頃を
見計らったように舞い始めたその白い花片に手を伸ばし目を細めた。
「六花だよ」
 その言葉に、彼女はあっという顔をした。例え方がすこし難しかったのだろうか。俺は、
そっと肩をすくめて彼女の黒く長い髪をそっとなでた。
「散る雪の やみよに吹き過ぐ 凍え風」
 幼い日に父から教わった俳諧の心得はまだ生きている。俺はため息混じりに彼女の肩を
抱いて、庵の中に入った。
 闇の中を白い六花が舞っている。空気が張り詰めて耳が痛い。俺は彼女が暖めてくれて
いた白湯に口をつけて目を伏せた。手がかじかんでしまっている。囲炉裏は赤く小さな明
かりを庵の中に投げかけている。
「涼」
 その声に彼女は目をついと上げる。俺は飲んでいた白湯の器を涼に渡し片目を眇めた。
「お前も飲め。さむいだろう」
 俺は鍋の中にあった燗を取り出して別の器にあおり一気に飲み干した。彼女はぽかんと
していたがやがて手に持ったその器を唇に当てて一気に飲み干した。
「酒もそのように飲めるといいな」
「お酒は……」
 苦笑した彼女は酒が飲めない。下戸だ。でも、俺のためにいつも酒を用意してくれてい
る。火に当たっていたからだろうか、彼女の頬に血の気が戻り始めた。俺はそれを見て茵
に横たわった。後からためらいがちに涼が背中のほうに入ってくる。
 俺は体の向きを反転させて彼女の冷たい手を捕まえて胸に引き寄せた。
「ちょ、秋嗣さんっ」
 今度は本当に嫌そうな彼女を無理やり捕まえて酒で火照った体に押し付けた。かなり冷
たい。
「すこし、酒飲めるようにならないとだめじゃないか?」
 すっぽりと収まった彼女にそういうと彼女は少しむくれてそうかもしれませんねと返し
てきた。そのむくれ方に俺が笑い、彼女を怒らせたのはその次の朝のことだった。
 外は全てが白く、立ち枯れした木が雪をかぶり太陽に当てられ、雪のしずくが滴ってい
たのが印象的だった。