其れはもう 戻るコトの無い
    
 闇の中、雪が降っている。白い、白い花が。青白いその花は、昼間の空を儚くしたよう
な色で、ふわふわと舞っている。
 その静寂の中を、不躾にも切り裂き、その舞を中断させて歩く黒ずくめの男がいた。
 傘も差さず寒い中、防寒として働いている衣服はその身にまとっている外套だけだろう。
外套から出た手は真っ赤ではなく、真っ白になっている。
 闇を街頭が照らしている。雪がふわふわと舞っている。仄明かりに花がきらめいている。
 男は真っ白な花片が舞い散る闇空を見上げて溜め息をついた。その息もすぐに白く凍る。
 車の音も何も聞こえない。ずいぶんと静かな夜だ。
 そう思いつつ一つくしゃみをした。彼の息によって無残にも壊された花片がはらりと黒
いアスファルトの上に落ち、スウと、とけた。
 このままでは風邪を引くだろう。無理も無い。息も白く凍りなおかつ雪が降っているこ
の夜に、厚手のコートも羽織らずにただの外套だけを羽織った姿で歩いているのだ。そん
な姿では馬鹿も風邪を引くだろう。
「バカか」
 独り言ちて彼は自嘲の笑みを浮かべた。彼はある馬鹿に締め出された。車の鍵も財布も
持ち合わせても無いのに締め出されてふらふらと歩いていた。締め出された原因は自分に
あるとはいえ、ここまでするとは鬼としか言いようが無い。
 いつの間にか立ち止まっていた。ひらひらと堕ちる雪が顔に落ちる。また歩き出そうと
足を踏み出しかけた時足音が聞こえた。
「先輩!」
 呼び声に首をかしげた。自分をそう呼ぶ人はもう誰もいなかったはずだ。そう思いなが
ら振り返ると、少し後ろに一人の少年が息を切らしてこちらを見ていた。そういえば、こ
いつも先輩と呼んでいたなと他人事のように思った。
 雪が積もり始めたアスファルトの上をばたばたと駆けてくる少年に彼は足を止めた。
「そんな格好で大丈夫ですか?」
「さむい」
 蒼い顔で端的に告げると少年は彼を連れて少年の家に向かった。家は、彼が歩いていた
通り沿いの小さなアパートだった。少年が言う事には寒そうな格好でその通りを歩いてい
たから急いで外に出てきて呼び止めてくれたらしい。部屋も暖かく、肩や頭に積もった白
い雪を払って、暖色系の証明で照らされた家具に目を向けた。
「どうぞ」
 温かい紅茶を淹れてくれていたらしい。白いカップの中に琥珀色のよい香りを放つ液体
が淹れられている。それをかじかんだ手で取っ手を取りそっと口をつけて溜め息をついた。
「すまないな」
 紅茶を口に含んでから一息を吐くと少年を見た。不思議そうに男の格好を見ている彼に
男はそっぽを向いた。
「あのバカに閉め出されたんだ。頭冷やしたほうがいいのはあっちなのにな」
 肩をすくめて電話に目を移して借りるとだけ言ってそのバカに電話をかけた。
「おい、早く鍵開けろ。てか、迎えに来い」
 不機嫌そうに言っているがなぜか楽しそうだった。その表情の矛盾に少年はまた首をか
しげた。
「……、ちょうど、任務のお知らせが入っていたようだ。来るか?」
 電話を置いて男は少年に言った。少年はきっかり二秒思考を凍結させて元気よく頷いた。
憧れの先輩からそういわれるとは思っても無かったらしい。すぐ準備しますと隣の部屋に
行き、仕事に必要なものを装備し、部屋を出て左右のポケットにナイフと拳銃を突っ込ん
で頷いた。
「気が荒い上に、ハンドルも荒い。気をつけろよ」
 男はそういうと、部屋を出た。かじかんだ手もだいぶ感覚が戻ってきた。
「莉雫」
 この白い花は、彼女を思い忍ばせる。彼女は、百合や白い花が好きだった。……この、
風花も例外ではない。
「闇に浮かびし白花の 風に揺られし宵の花」
 詠うように紡がれたその言葉に呼応するように、一陣の風が吹いた。
「さぁ、仕事だ」
 風に遊ばれる風を抑えずに外套を翻しながら、道に出た。その後を少年が続く。
 
 彼は、こんな雪の日に愛する人を失った。その喪失の痛みはまだいえていない。痛む暇
もなく彼の時は流れる。
 時は時として残酷だ。
 彼は大粒の雪が降ってきた空を見上げ、溜め息を吐いた。その溜め息の中になくした人
の名が溶け込んでいたのは気のせいなのだろうか。


 車の音が彼らに近づいてくる――。