時雨れる雫が落つる先

 天を覆いつくす雲がずっと続いている――。
 

 雨が、降り続いている。途切れないその雨の音は車の音にかき消されながらも、静寂を
許さないかのように降り続き断続的に音を立てていた。
「……」
 雨が降り、当然のように歩道には傘が咲いている。だが、その中で、傘を差していない
制服姿の少年がいた。ブレザーも下に着ていたワイシャツも濡れそぼち透けていた。雫は
彼の黒々とした髪を伝い、鋭い顎の線を通り滴っていく。
 車が水溜りを通りばしゃと音を立てて白いスカート姿の若い女に水をかけた。当然、女
は水がついたところをしきりに気にしてむくれた。
 そんな風景ですら、些細だ。
 少年は雨の中、傘も差さずにただ迷いなく歩を進めている。
 まだ冷たい、六月の雨の中。
 無言で少年は歩き、ある花屋で立ち止まり、その中に入った。扉につけてあったらしい
鈴が高く、澄んだ音を響かせ、客の到来を告げた。
「いらっしゃいませ」
 お約束とも取れる言葉をつむぎながら店員が奥から出てくる。店員も驚いたようだった。
濡れ鼠の学生が、無表情で花屋に入ってきたのだ。驚くだろう。
「雨、すごいんですか?」
「ええ。……仏花を二つください」
 必要最低限の言葉しか話さずに少年は濡れたポケットの中から千円を取り出した。
「雨なのに、お墓参りか。えらいね」
 二つ束ねて紙に包んで少年に渡して千円を受け取って店員はおつりを少年に渡した。少
年は愛想のかけらもない会釈を返してまた傘も差さずに歩道を歩いていった。
「雨だからです」
 小さく呟いたのは、店員に、聞こえなかったようだ。
 それからしばらく歩いて、ある寺に入り、無秩序に立てられたビルのような墓石の間を
迷いなく通り抜けて、一つの墓石で立ち止まった。
 少年は手馴れた手つきで花のゴムや紙を取り払い、雨水がたまっている花挿しに二つ、
花を挿した。
「父さん、母さん、……、夏見」
 呟きさえ、雨音にまぎれていく。雨は、静寂を許さない。さらに、激しく降りはじめ、
菊の花が大粒の雨粒に打たれ、雨粒が時雨れる。
 静かにたたずみ、合掌するでなく墓石を見つめていた少年は自分をあたっていた雨粒が
ふっと消えたのを感じた。と、同時に、一つの気配が、真横に訪れた。
「雨の日の、命日にだけ、墓参りか」
 少年に、傘を差しかけていた男がポツリと呟いた。気配を消してここまで来たらしい。
少年は彼に目を向けずにただ前を向いてじっと黙っている。
 男はまだ若く、少年の兄だと言ってもいいぐらいの年だろう。黒髪を染めるでなくただ
短めに切っただけで清潔感がにじみ出ている。その白い耳にいくつか付けられたシルバー
ピアスがどこか危なげな雰囲気をかもし出している。外見の年よりも大人びた表情と落ち
着いた格好に、女性の注目を買うだろう。
「風邪、引いちまうぞ」
 気遣うような響きがあったのを耳で聞き届けながらも、少年はしばらくそこに立ち尽く
し、思い偲んでいた。
「行きましょう」
 やがて、少年は吹っ切れたように自嘲気味な笑みを浮かべてから無表情に戻って男を見
やった。
「いいのか?」
「はい」
 頷くと少年は男を無視して歩き出した。男は、少年の透けたワイシャツの下にネックレ
スが下げてあるのに気がついた。龍玉をあしらったモチーフだろうか。白い珠の、首飾り。
「その首飾りは何だ?」
 その問に、彼は背を向けて肩をすくめた。そっとそれに触れて目を伏せると微かに微笑
んだ。

――いつか、絶対会おうね。会ったら、コレ、返す。
――うん。絶対ね。

 今でもその記憶がよみがえる。まだ温かかった時の記憶。年下の幼馴染との子供らしい
小さな約束。
「小さい頃の約束です」
 その声が幾分穏やかなのを聞いて男は不思議そうにしていたが、それ以上は何も聞かず、
男は少年の背を叩いて乗ってきた車に戻った。
「いつか、か」
 少年が流れる景色を目に映しながら、小さくもらした呟きを男は聞き逃さなかった。ふ
っと笑うと、少年の濡れた頭をぐしゃぐしゃにかき回して暖房を切った。
 男は、うすうすと感じていた。その約束が、いつか、果たされる事を。その手の力はな
いものの、なんとなく、漠然と感じていた。今は、少年は暗いけども、その約束が果たさ
れる頃には、きちんとした社会人に戻れる事を。
 彼が自らで閉ざしている世界の闇を照らす、一条の光となる事を。

 やがて、雲は晴れ、雲と雲の割れ目から金色の光が地上を照らした。それは空に掛かる
階段のように荘厳で、闇を照らす光のように温かだった。
 いつか、彼の世界に、そんな日が来ればいいなと、男は運転中にもかかわらず、その景
色を見てぼんやり思った。