綺麗で哀れな涙が一滴

 紅葉が雨に打たれている。降り止まない軽い雨の音に、耳を澄ませながら一人の男は傘
も差さずに車の外の濡れた道に降り立った。
 男は、二十代後半から三十代前半だろう。男性的な色香を放ち始めているその引き締ま
った身体を包んでいるのは黒いスーツだった。平社員というよりは、良く見てインターネ
ットやパソコンのエンジニアや、悪く見て、どこかのやくざのスーツ姿という感じだ。鋭
い雰囲気が彼の周りを侵食していた。
 そんな男は車の後ろの席からその風貌に似合わない白百合の花束を取り出した。その彫
りの深い顔立ちがどこか寂しげに歪んだような気がした。
 黒いスーツに映える真っ白な百合。男は微かな微笑を浮かべながら、目の前に広がる墓
地に足を踏み入れ、ある墓まで一直線に歩いた。
 ―――――――――小野家之墓
 永く風雨に晒されていたのだろうか。こけが墓の縁にへばりつき少し薄汚れて、どこか
くたびれた印象さえも持てるその墓に、白百合を手向け、目を伏せた。
「莉雫」
 低くもれたその名は、すぐに雨音にかき消された。男は目を伏せたまましばらく動きも
せずに墓石の前に立ち尽くしていた。
 その男は、あの日の事を思っていた。男の脳裏に鮮明に焼きついているのは、彼女を殺
した、あの日の事だった。
 あの日、あの時、彼女は涙を見せた。あまり見たことのない、ナミダ。はじめてみたの
は、男が淡々と無表情で自分の身の上話をしているときに、流したあの涙だった。あのと
きの涙は暖かかった。だけれども、あの涙はすごく冷たかった。それが、気にかかった。
 別に、彼女を殺して、彼女に望まれて命を絶ってやったのは自分にとって傷にはなって
いない。また、元の状態に戻っただけだ。ただ、それだけなのだ。だが、彼女は何を思っ
て、最期、涙を流したのだろうか。それが、気になる。
 彼女は自分にとって何だったのだろうか。ほかの人とはまた違う位置にいたのは間違い
ない。絶対、他の人とは違う形で、自分の頭を占領されていた。いやな感じではなかった。
彼女に居てもらったほうがうれしかった。だが、もう、そんなことはいえない。
「もう三年か、永いものだな」
 長いというのはその三年という期間か、それとも、再び彼女に見えるまでの期間か。そ
れは男にも分かっていなかった。
 男は溜め息をついて墓を見据えてから一礼した。そこに、彼女がいるかのように。そし
て、彼は何事も無かったように墓と墓の間をすり抜けて行った。
 ふと立ち止まり空を見上げた。降り注ぐ細い銀糸が顔を濡らす。男にしては長い睫毛の
上を通り眦を流れ、さながら涙のように頬を滑り落ちていく。
 男は鼻を鳴らして俯くと毅然と顔をあげて車に向かって歩いていった。そして、溜め息
をついて車に乗り込むと何処かへ向かって行った。
 その姿を、同じく雨に濡れた淡い紫色の紫苑が雫を滴らせながら黙って見つめていた。