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   奏でられた詩

 照明が淡く落とされ落ち着いたジャズが流れている室内に一台のピアノが置かれていた。
玉虫色に光る黒鍵に真珠色に光る白鍵。ピアノは今、ぼんやりとした暖色の色に照らされ
て穏やかな輝きを放っている。
「……」
 きっちりとしたスーツに身を包んだ一人の男がウイスキーの入ったグラスを片手にピア
ノの席に座った。ウイスキーをピアノの端において誘うように女を見る。それを見つめ返
して白い胸元の広く開いたドレスを着た黒髪の女が首を傾げる。
「貴方、ピアノ、弾けるの?」
 その驚いた声に男は穏やかに微笑んでそっと白鍵に指を置いた。男の顔つきが変わった。
美しい音色が辺りに響き渡る。
 これを弾くのは何年ぶりだろうかと思いつつも指は動く。あの時と寸分も違わずに。
「玲也?」
 目を閉じて弾き始めた男に何かを感じたのだろうか、だが、それ以上何も言わずに女は
その音色に耳を澄ます。
 指は滑らかに動く。もう何年も弾いていないとは思えないほどに美しく奏でる。
  いつの間にか、男の周りには女のほかに何人かが酒が入ったグラスを傾け、うっとりと
その音色に聞きいっていた。
 そこまで人をひきつける理由はその指に伝わる、物悲しげな物だった。
  彼は今、何を思い出しているのだろうか。右手の薬指にはまった指がそれを物語ってい
るようにも思える。
 うっすらと男の目蓋が開く。その光は今までの中で一番弱弱しく感情的な光だった。
「……」
 酒を煽りながらその白い指が紡ぐ音色に溜め息をついて目を伏せた。そして、高音の和
音が辺りに響き渡ってその音色は終わりを告げた。
「これはこれは」
 集まった人々に苦笑し、一礼してから肩をすくめて半分氷の解け掛かったウイスキーを
手に女をエスコートしてカウンター席に腰掛けた。
 ここは彼の行きつけのバーだ。もう何年も前から暇さえあれば通っていたが、この女と
出会ってからは初めてだった。
「玲也さん?」
「ああ、ジントニック追加で」
 手馴れた手つきでマスターにグラスを渡すと頬杖を突いた。
「何でも出来るんだね、あんたって」
 呆れたように言う女に、男は肩をすくめて見せてポケットの中から紙煙草を取り出して
マッチで擦った炎でつけて一服すると煙と一緒に溜め息をついた。
「何憂鬱そうな顔してるのよ」
「憂鬱なんだから仕方ないだろ?」
「バカいわないで。ほんとあんたって……」
 ムードぶち壊すよねと言いかけたが男のふとした淋しそうな表情に口をつぐんだ。男は
無言で差し出されたカクテルを見ている。
「玲也?」
 その声に物思いに沈んでいたらしい男ははっと顔を上げて自然な動作でカクテルに口を
つける。煙草は灰皿に落としたままだ。
「すまないな。……」
 視線を落とした彼に、溜め息をついて女はグラスを空けて初老を迎えているであろうマ
スターを真っ直ぐ見つめた。
「ブルームーンください」
「わかりました」
 にっこりと微笑んだ白髪交じりの初老の男に微笑み返してちらりと隣の男を見た。
「俺にはもう付き合いきれないてか?」
「しみったれた面してるあんたに付き合いきれないのよ。まったく、こんなところまで来
て飲みに着たんだからもう少ししゃきっとしなさいよ」
 いつもと変らない彼女にふっと笑ってまたカクテルに口をつける。ジンとトニックウォ
ーターの香りが鼻に付く。飲み干して空になったグラスをマスターに渡した。
「Kiss in the derkを」
 気障ったらしく低い声で言って薄紫色の酒に口をつける彼女を見て溜め息をついた。
「何よ」
「いや、こんなペースで飲んでてお前は平気なのか?」
 自分の体はわかるが人の体はわからない。おまけに車できていたことを忘れていた。ホ
テルに宿泊かと溜め息をつくと真っ赤な酒を口の中に注いだ。チェリーの芳香がふわりと
鼻腔を包む。
「あたしは平気よ。お酒には強い方だと思うし」
「そうかよ。腰抜かしたらそのままベッド直行するからな」
 顔色一つ変えずにいわれたその言葉に女は容赦なく男の顔面に拳をくれてやった。男も
予想済みだったらしくグラスを持っていない手でそれを受け止めてふっと笑った。
「あんたねえ、何で本当に」
「暗がりでキス」
「あ?」
 尻上がりの返事に苦笑してその唇にそっと人差し指を当てた。
「仮にもここはバーだ。男言葉はご法度だぞ?」
 落ち着いた雰囲気の室内を指して意地の悪い笑みを浮かべる。漫才をやっている気分だ。
「あんたが言うな、あんたが」
 せっかくのブルームーンが台無しだと苦笑すると同じように苦笑しているマスターと目
が合った。
「仲がよろしいのですね」
「冗談」
「そうじゃないですよ。俺はただの騎手で、この暴れ馬を御するのが大変で……」
「誰が暴れ馬」
「お前しかいないだろう」
 わざと目を見て言ってやると女は頬を紅く染めてそっぽを向いた。くすくすと笑いなが
ら紅い酒をもう一口飲んでから溜め息をついた。
「そろそろ出るか?」
「……」
 相当機嫌を悪くしたらしい。そっぽを向いたまま席から立つとそのまま外に出て行こう
とした。
「とりあえずホテル取って来るからお前は待ってろって」
 マスターに軽く会釈して外に出た男の背を見て女は溜め息をついた。
「久しぶりですよ」
「え?」
 急にマスターが話し掛けてきたのに驚いてマスターに目を向けると皺が浮かんだ顔を穏
やかにして男が去って行った方を見遣っていた。
「玲也さんが、あんなに穏やかなお顔をされているのを見るのは」
「そうですか?」
 玲也が飲んでいた残りを喉の奥に押しやって目を見開いた。意外においしい。
「お作りしましょうか?」
「お願いします」
 その言葉に手馴れた手つきでシェークをはじめたマスターの動きに見とれつつ目を伏せ
た。
「そうですねえ、莉雫さんがお亡くなりになられた以来ですね」
 グラスを差し出しながらマスターが言う。その言葉に女は溜め息をついて肩をすくめた。
胸元を彩る銀色の輝きが間接照明の穏やかな光に煌く。
「みんな、そういいます。結局、あたしは莉雫さんの、代わりじゃないかってたまに思う
んですよね」
 酔いが回っているらしい、普段表に出さない言葉を愚痴り気味にマスターに言うと、マ
スターは穏やかに微笑んで目蓋を閉じた。
「Kiss in the derk。暗がりでキス。莉雫さんといらした時は決して注文されてませんよ」
「え?」
 驚いた顔に微笑みかけて何かを思い出すようにマスターは目を細め遠くを見遣る。
「そうですね、いつも、ギムレットやブルーローズを注文されてましたね。特に莉雫さん
が亡くなられ、貴女とであうまでの期間、ギムレットだけを……」
「ギムレットなんて」
「ギムレットには早すぎるで有名ですね。ブルーローズは蒼い薔薇、花言葉は不可能やか
なわぬ夢という意味があるんですよ。今は、青い薔薇を開発されてしまって、奇跡という
意味になってますが」
「不可能?」
「うすうす感づいていたのかもしれません。……、帰ってきましたよ」
 振り返ると男が財布を取り出していた。台に目を向けて紅いグラスが二つあるのをみて
溜め息をついた男は計算していたらしく数千を手にしてマスターに渡した。
「雪、降られているんですか?」
 男の肩に雪が散っているのを見て尋ねると男は頷いて女に手を貸して立たせて自分が着
ていたコートを女に着させてから会計を済まし外に出て行った。
「さむっ」
「近場にした。急ぐぞ。風邪引く」
 一度空を見上げ空から舞う雪を見て溜め息をつくと女の手を握りながらホテルに向かう。

 静かに降り続く雪は、ただ白く、紅く濡れたあのときのことを思い出した。
「…………」
 無言で顔を伏せる男に一つため息を漏らして女はそっと手を握り返した――。