どこへ逝けばいいの

 白い花が舞っている。風が花片をさらい凍てつく世界を飾り立てている。辺りの建物も、
木も、人も、何もかも白く、凍っていた。
「莉雫」
 その中、黒い男が、白く紅い女を抱き起こしている。その肩が、小刻みに震えているの
は、決して寒さのためだけではないだろう。
 雪が舞う。命さえ凍てつかせる静謐な冬の世界が彼らを包み、取り巻いていた。
「莉雫」
 もう一度、男が呼ぶ。女は男の胸に寄りかかって細く息をついた。紅が、その肢体を染
めている。あふれ出して、白い雪を深紅に染め上げている。
 もう、永くは無いだろう。
「優也」
 かすれた声が男の本名を紡ぐ。その名に男は目を見開く。
 風が強く、吹き付ける。
 あまり呼ばれた事の無い本名に、彼は動きを止めて、彼女を見つめた。
「莉雫……、いや、美里」
 そう呼ぶと、消えそうな儚い笑みを浮かべた。いつもと変わらぬ、その笑みは、彼の心
を強くゆすった。冷たい鋼とも言われている、彼の心をだ。
 男は彼女を強く抱きしめながら、消えかけている彼女の言葉に耳を傾けていた。その顔
は喪失の恐れではなく、彼らしくない、悲しみに歪んでいる――。
「美里」
 もう一度呼ぶと彼女は身じろぎして彼の腕から逃げようとした。それを捕まえて静かに
溜め息をついた。
「優也、……そろそろ」
 本当は行ってほしくないくせにと心の中でつぶやいて、そのいじらしさが余計に胸を締
め付ける。
「お前を置いていけるわけねえだろう」
 深い声音に、女はまた、細く息をついた。そして、男は数えられるほどしか見せていな
い、優しげな笑みを浮かべて女の冷たい額に自分の額をくっつけた。
「優也」
 男は額を離して小さくかすれている声に耳を澄ます。彼も、彼女も悟っている。
 もう、永くは無い。
 男はただ、彼女を看取るためだけにそこにいた。
「逝きたくない」
 それは、切実な彼女の願い。今まで殺してきた醜く生にしがみつく輩とは違う、心から
の願い。それは、自分のために生きたいのではなく、自分が居なくなれば悲しむ人がそこ
にいるということに気づいている証。
 そして、その言葉を向けられている、彼の心を嵐のように揺する強い、強い言葉。
 死に行く人が紡ぐ、弱い、言葉。
「うん」
 男は、何もいえなかった。ただ、強く、彼女を抱きしめるしかできない。
 消え行く灯火を、守る事も、零れ行く命の雫を止める事もできない。
 ただ、できるのは、雪とどうかしつつある彼女に自分の温もりを伝えるだけだった。自
分は、殺めるしかできない。そんな、無力感が彼を襲っていた。
「でも、このまま苦しいのも嫌なの」
 微かで確かな彼女の言葉。男は静かに息を吸って、吐いた。凍りついた空気が胸を刺す。
それと同じく、彼女の言葉も彼の胸に細い針となって刺さる。
 男はさりげなく、片手を彼女の腰に手を当てた。その腰にある、刃に。
「貴方の手で」
「いいのか?」
 女の声をさえぎって聞いた男の声はいつもと寸分とも変わらぬ声音だった。だが、その
声は震えている。否、体が震えている。
 女はふっと笑って、添えられてあるもう温かい片手に自分の冷たい手をそっと重ねた。
そして、目を見て頷いた。
「貴方が、来るまで、どこにも逝かないで、待ってるから」
 その言葉が終わらないうちにその腰にある刃を、かつて、彼女にあげた、白銀に輝く刃
を、振りかぶった。
 美しい軌跡が緩やかな弧を描いてまっすぐ彼女の胸へ伸びる。
 刹那、刃に煌いた燐光が男の顔を照らした。悲しみに顔をゆがめているのではなく、確
かに痛みを孕んだ瞳で彼女をまっすぐに見つめていた。だが、その表情が雄弁に彼の悲し
みを、やるせなさを感じさせる。
 女は、その刃を胸で受け止めた。ぱっと鮮血と薄い雫が散り、安らかなその顔にうっす
らと笑みが張り付いて、凍った。
「ありがとう」
 深い声音でそんな声が聞こえた気がした。落とされた目蓋から涙が切り落とされる。
 静かに時は流れる。風の音さえ、今はない。ただ、雪がはらはらと舞っているだけだ。
 男は刃を通して彼女の命が失くなって行くのを感じた。もう、その顔は悲しみに歪んで
いない。いつもの表情で彼女の胸から刃を引き抜くとそっとその体を横たえて、彼女の頬
を統べる雫をぬぐってやって何も言わずに、ただ血に濡れる刃で自分の左手の紅指し指の
先を傷つけて、そっと、帰らぬ人となった彼女の唇に紅を差した。
 六華に彩られた、冷たき冬の花嫁に、そっと紅を指した。
 
 
 
 
 
 
 
                       ――ねえ、どこへ逝けばいいの……?